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橋本努 講義「経済思想史」北海道大学経済学部 no.3.

毎回講義の最後に提出を求めているB6レポートの紹介です。

 

 

山崎英恒 3年 082097 

  

  問 生徒にとって大学はどうあるべきか

    大学の先生をどうするのか

   生徒の現状を分析せずに大学はどう在るべきかを論じても始まらない。すなわち生徒は『大卒』という権威を得るため、また厳しくつらい実社会に出るまでのモラトリアム、執行猶予期間を置くために大学に来ているのである。ゆえに、そのような生徒はたいてい無目的でせいぜい単なる知的教養を味わうのが関の山である。したがって、大学で何かをするという動機が極めて低い。

   さて現状の生徒にとって大学は極力自由放任であるべきである。つまり、現経済学科のような単位の縛りをなくして、極力生徒のとりたい授業を取れるようにすればよいのである。しかし、これは私の心からの意見では決してない。私の理想とするあるべき生徒像と大学像は上記のものは異なる。

   まず生徒像は『現状における問題や課題を湧出し、それをいかに効果的かつ合理的に解決するか』を調べ、学び、考えられる学生のことである。こういう生徒は世に出て役に立つ。そして何よりもその生徒自身が知力によって望む状態に自身が近づき得るだろう。

   さてこのような生徒に対して大学は実践的理論、各種方法論を講義として提供すべきである。ただし、一方的押し売りになっては問題なので、生徒の意見、考えを講義に反映すべきである。

   さて大学の先生をどうすべきかであるが、まず研究で成果を出しているもの、講義で成果を出しているものを審査する機関を設けるべきである。ここにおいて、前者、後者共に評価の悪い教師は解雇すべきである。

   ここで問題となるのは、誰が審査を行なうかであるが、学生、教師、実社会のこの3回の中から代表を出すべきである。審査は原則として公開。こうすればうまく行くのではないだろうか.

   ただし運用方法は極力弾力的にすべきであり、権威によりは成果を重視するようになると良いであろう。

 

   中西ゼミ 3年 082086 松浦麻里子

  

  Q1 冒頭『商品』の性格

   マルクスの『資本論』において『商品』は資本主義社会の富の『原基形態』をなすものとして把握されている。資本主義社会の富の原基形態としての『商品』は資本主義的に生産され、交換される『商品』(資本=賃労働関係を内包している)であって、単純商品生産され、交換される『商品』とは異なる。そしえ『商品』は『使用価値』と『交換価値』の二要因で支えられているのだが、『使用価値』は、捨象される。それは「使用価値」でない生産物は「商品」ではありえず、「使用価値」であるということは生産物が「商品」であるための不可欠の前提であるが、「商品」の「商品」であるゆえんは、それが『交換価値』を持つという点にあるからである。商品の「使用価値」はその所有者自身には役に立たない他人のための「使用価値」であって、それは「交換価値の素材的担い手」としてのみ意義を持つ。

  Q2 捨象によってなぜ「効用」が残らないのか?

   諸商品の物体的所属性が問題となるのは、それらが諸商品を有用ならしめ諸使用価値たらしめる限りにおいてであり人間は使用価値から効用を受けているのだが、諸商品の交換関係を特徴付けるのは、諸使用価値の捨象に他ならないからである。交換関係においては、ある使用価値はそれが適当な比率で等置されていれば、どんなほかの使用価値とも、全く同じ物とみなせる。『使用価値』としては諸商品は相互に異なった質であるが、交換価値としてはそれらはただ異なった量足り得るのみであり、したがって一分子の使用価値も含んでいない。そこで、諸商品体の自然的諸属性が捨象されるとすれば、これらの労働は『抽象的人間労働』に還元される。

  Q3 論理説、歴史説

   論理説は、マルクス経済学=『資本論』は、単なるイギリス経済史あるいはイギリス資本主義分析に関わるものではなくて資本主義一般に関する理論であり、そこに展開される諸法則・諸規定はおよそ資本主義が存在する限り、どの国においても作用し妥当するというものである。それに対して歴史説は資本主義的生産様式を他の様々な生産様式から区別する特殊歴史的なものこそがマルクス経済学にとって問題なのであって、一般的なもの・共通なものは、ただ資本主義社会に固有な経済諸法則を解明する上に必要な限りでのみ、取り上げられるに過ぎないということである。

  Q4 社会主義では『価値』はなくなる。なぜか?

   資本主義的生産様式には、資本は無限の価値増殖を目的とし、その手段として社会的生産様式の基本編成とその矛盾と把握することによって資本主義の社会主義への歴史的移行の必然性を科学的結論として明らかにする。そして、矛盾の解決策は、資本家からの生産手段の収奪に基づく結合労働者たちによる生産手段の社会的所有と労働成果の社会的取得の確立(資本=賃労働関係の使用)ならびに、社会による経済の計画的運営(生産の無政府市の止揚)である。したがって資本主義的生産様式から社会主義へと移行することで、資本主義的生産様式の内的法則が消失するので『価値』はなくなる。

 

   中西ゼミ 3年 082086 松浦麻里子

  

   ウェーバーは『支配の社会学』の中で『支配は支配者と被支配者とにおいて権利根拠、つまり、支配の正当性の根拠によって内面的に支えられるのが常であり、この正当性の信念を動揺させるときは、重大な結果が生じるのが常である。』と述べている。『支配』とは、特定の命令に対して一群の人々に服従を見出しうるチャンスのことであり、服従することに対する利害関心があるということと、正当性の信仰の2つの側面から成立している。これに対して『服従』とは服従者が命令の内容をそれが命令であるということ自体のゆえに、しかももっぱら形式的な服従関係だけのゆえに、命令自体の価値または非価値について自己の見解を顧慮することなく、一自己の行為の確立としたかのごとくに彼の行為が経過するというだけである。ここで、正統的支配の3つの純粋形について考えてみる。まず、『合法的支配』とは合理的な性格のもので、制定された諸秩序の合法性と、これらの秩序によって支配の行使の任務を与えられたものの命令権の合法性とに対する、信仰に基づいた支配である。これは非人格的で制度的な支配である。『合法的支配』の典型として官僚制があげられる。私は近代化の過程は科学・技術を通じた自然『支配』と市場経済と大衆民主主義とを前提として官僚制化へと結晶する社会統合とを2つの基軸として展開されてきたのではないかと思う。その意味で近代化にとって不可欠であった官僚的支配の特徴は@水準化の傾向A金権制化の傾向B形式主義的な非人格性の支配である。また官僚制の精神は@形式主義A被支配者の福利を増進するためにその行政任務を実質的・功利主義的な見地から取り扱おうとする官吏の傾向などがあげられる。現在2は被支配者の福利を増進というよりも、支配者の福利を増進させるように行なわれ、被支配者の福利はそれに付随するものであるように思われる。近代代議制民主主義において、利己的な諸個人の意思を代意する代議員一行政府が、諸個人に対して社会的利害をもたらすものであるはずだが、汚職などで堕落して行くように。次に『伝統的支配』は昔から妥当してきた伝統の神聖性と、これらの伝統によって権威を与えられたものの正当性とに対する、日常的信仰に基づいた支配である。これは人格的で制度的なものである。この例として『長老制』や『家父長制』がある。日本でも近代、伝統的な『家父長制』が崩壊した。なぜだろうか。伝統的な『家父長制』や『長老制』は非合理的で遇然的なものであり、人々に抑圧的なものであるか、せいぜい個別的なものであるが、これに対して現在のような『近代的な生活』は合理的で必然的なそして普遍的で人々を解放するものであったからだといえるであろう。しかし、簡単に変革がおおなわれるのではなく、『家父長制』や『長老制』といった伝統を近代という社会機構に適合するように変容させることが必要であり、ここに様々な対立や軋轢が生じることになる。最後に『カリスマ的支配』とは、ある人と、彼によって啓示されあるいは作られた諸秩序との神聖性、または英雄的力、または模範生にたいする非日常的な帰依にもとづいた支配である。これは人格的で非制度的なものである。

 

   中西ゼミ 3年 082086 松浦麻里子

  

   近代主体は、近代社会科学を身につけることによって無責任で集団同調的な意識の浸透した社会の現状を超出し、特定の利害関心から切りはなされたところに自らの生き方を獲得しなければならないと考えられている。その上、さらに近代主体は社会を根本的に変革する使命も負っている。共同体論者が『内生的な社会解釈としての実践』を求めるのに対して、近代主体は『超越的な社会批判としての実践』すなわち『外側から』批判する観点を求めている。共同体論者は近代主体という理想を求めるならば、我々は社会の中で自己を淘汰するための基盤を失って、結局のところ、ばらばらな個人、自らのライフスタイルに閉じこもった個人、政治的無関心(アパシー)を生み出すことに終わるだろうと考えている。私はこれはすべてに妥当性を持っているとは思えません。近代主体は、いわゆる村社会から超出し、特定の利害関心から切り離されたところに自らの生き方を獲得しなければならないとしているのであるから、共同体論者の指摘に当てはまっています。しかし、近代主体はさらにそこから他の人々が主体的に生きることができるようにと、社会を根本的に変革する使命を負う。その為には、一人の力には当然限界があるため、他者と協力することや、政治的力を利用しなければならないから、共同体論者が言うようなバラバラな個人自らのライフスタイルに閉じこもった個人、政治的無関心といった状態に必ずしも陥るとはいえないのではないだろうか。では、どのようなときに、共同体論者の指摘が当てはまるのだろうか。それは近代主体者が社会変革の使命を果たさないときや目的を誤った社会変革を果たそうとするときなのではないだろうか。社会変革の使命を果たさない場合、近代主体になるために身につけた近代社会科学は単なる自己の内的蓄積に終わってしまう。また、社会変革とは本来、学問的知識を道徳的に利用して行なわなければならないものである。一般的に学のある人は徳のある人であると思われる傾向がある。妥当する場合もあるし、そうでない場合もある。道徳は学問に付随してくるものではなく、付随してくるように心がけなければ身につかないと思う。その為には、殻に閉じこもるのではなく、いろいろなものを見つめ、それを自分の頭で考え批判することを心がけなければならないのではないだろうか。それができない場合は、既存の社会を壊滅的に破壊する近代武器となる。

 

   中西ゼミ 3年 082086 松浦麻里子

  

   アンシュタルトの例として、国家があげられていた。国家が安定的に成立する根拠がいくつか考えられている。近代国家は法の整備と民主主義という政治制度の成立に、指標をおくことがまず考えられる。次に、このような近代的な機構の問題とは別に多くの近代国家は、その共同体制を民族という文化的アイデンテティーにも指標を置いている。本来、一つの国家が一つの民族によって形成されているわけではなく、またそもそも民族という集団も確固としたアイデンテティーを持つわけではないが、近代国家は教育はもとより、いろいろな機会を通して言語をはじめとする文化の斉一性を整備し、国家形成を目指しているのではないだろうか。結局、国民は新しく作り出されたものではなく、ある民族の文化的伝統を継ぐものとして作り出される。これは近代国家が単なる近代的な機構としてではなく、一つの伝統的な共同体であろうとすることを意味しているといえる。しかしながら、近代という社会機構はその抽象的な性格のゆえに普遍性を有し、そのことのみが社会機構が一つの普遍的な理念であるといえる。それゆえ近代の国家が具体的な文化に関与することは当然近代の抽象的な普遍のいう根本的な性格と矛盾し、市民社会との対立を生み出すと同時に国家の領域内外の生活伝統や、同様に他の犠制的な伝統の上に成立するほかの国家と相克を繰り広げられる。こうした矛盾が存在するにもかかわらず人々は近代法や民主主義という近代国家の指標ではなく、国家の文化的な共同性という犠制的な伝統を支持しているのは、市民社会が契約の尊守という経済的な模範、唯一の規範としていて、そこに本来備わっていなければならない共同性にまつわる様々な生活規範を欠落させているからではないだろうか。このようなことが国家がアンシュタルトたるゆえんであると思う。

 

   金井ゼミ 3年 082096 山口しおり

  

   マルクスは『他人を自己の自由を制約する存在』としてみている。私的所有が他人との関わりをたつような権利だからなのだろうが、私はこの考えについて少し疑問を持つ。そもそも経済学の考え方として人間は限りなく利己的であるといったたぐいの考え方があるが、本当にそうなのか。実際日々生活していく上で自らの独立を完全に保って「自らの資産を享受するといったたぐいの考え方があるが、本当にそうなのだろうか。実際日々生活して行く上で自らの独立を完全に保って『自らの資産を享受する』といったことは難しいように思える。どこかで人と関わり妥協をしなくてはならないのが人間というものなのだろう。確かにマルクスの考え方に納得はできる。他人との独立を確立し、関わりを断つことが真の自由で、他人の存在は自らの自由を制限するものなのかもしれない。しかし現実として、他人がいなければ、自らが存在し得ないならば、この考え方には無理があるように思われるのだが。

   類的存在の解釈だが正直言って難しく私には良くわかっていない。しかし私なりに考えてみた点を記したい。独立的・利己的な個人でありながらも、自己の内にマルクスで言うところの公民、精神的人格の部分を取り戻すとはどういうことなのだろうか。市民社会の成員としての、どこまでも利己的な個人という概念と対になる概念が、政治に参加するといった社会的な人間、公民というものなのではないのか。そして公民のいう抽象的な概念が独立的な個人というものよりも高い次元に位置するのではないかと思う。公民的な面を個人が取り込み政治的な面を持った個人が日々生活し、労働していることで自然と国家と市民社会の融和がもたらされると私は捉えた。

   利己的な個人が、公民的、精神的人格に包摂され、そしてそれによって市民社会と国家の分離が解消される。それは単なる個人よりも、公民的性格をもつことで高い次元に位置する人間で、つまり類的存在だと思う。みずからのうちの政治的な面と社会的な面を一体化し生きていく人間が、単なる個人を包摂する類型存在なのではなかろうか。

 

   金井ゼミ 3年 082096 山口しおり

  

   直観で捉えるべきなのか、さめた態度をとるか

   資本主義の分析、批判においてウェーバーは直観的な捉え方をすることに難色を示している。資本主義を単なる欲望の魂、営利物と直観的に見て批判することは確かに短絡的だといわざるを得ないだろう。皆が剥き出しの欲望でどこまでも自らに忠実な社会などそれこそ『歴史的』に存在し得ないだろうし、もし存在してもすぐに自滅しそうである。よって彼は子供じみた批判は心に秘めてさめた目を持つようにいっている。資本主義をもっと類型的歴史的に分析することを最重要視し、そしておそらくは歴史的な分析から資本主義が欲望の産物ではなくて、合理的精神の具現化したものだと判断した。

   彼はさめた認識を直観よりも上位としている。これは主観よりも客観を重視する。つまり主観の完全なる排除を説いているようにも取れる。ところで、日常において多くの人は物事を認識する上で主観からはいり、ウェーバーが『そっと胸にしまっておいたほうがいい』というような拙い分析や批判をもとにして議論をまじえたりしている。それが当然のこととして生きている。

   物事を捉える上で、主観的なアプローチと、ウェーバーの対照との距離を保つという、客観的なアプローチの二つを考えても差し支えない。しかし、この二つのアプローチに優劣があると考えるのははなはだ疑問だ。第一、完全な主観のみの判断はほとんど個人の感情に走ってしまいがちで、これはこれで危険であるが、歴史的な資料、文献等を参考にどこまでも客観的に物事の分析をしようとしても、そこに主観が入ることは避けられないようにも感じるのである。また、資本主義ひとつをとっても、論者の主観の全く感じられないような分析結果はあまり魅力がないような気もする。そもそも直観で捕らえた『取に足らぬ』意見でもそこから何か優れたものが出てくるかもしれない。一部の天才にしか発言が許されない世の中で、文化の発展はあるのだろうか。それにさめた態度で物事を捉えて本当にその物事を自分のものにできるのだろうか。大事な部分、核心がダイレクトに伝わってくるのだろうか。

   直観的判断を外部に表現し、他者と論じ合うことなどでそれが軌道修正され累計的、歴史的分析に昇華していくのも可能であろうし、客観的に距離を置いて分析して行く過程で自らの主観が混入することでその結果にある種の個性が生まれるは悪いことではないだろう。つまり、直観と醒めた認識は相反するもののようだが、分析や批判の上では両方とも必要なものだと私は考えるのである。どちらかだけだとどこかしら偏ってしまう危険はないのだろうか。ウェーバーはこの二つの捕らえ方に優劣をつけているが、この点かが私には疑問なのだ。どちらかが正しくどちらかが間違っているというようなものではなくて、表裏一体のものであり、一方のみに比重を置くというのはどうも短絡的なのでは、と思ってしまうのである。

 

   金井ゼミ 3年 082096 山口しおり

  

   経済に政治が介入するということは、やはり大問題なのだろうか。日本は(これは日本という国の特徴となっている面もあるが)政治の経済への介入が激しいものがあるのだろう。それゆえに規制緩和だの何だのと諸外国から門戸開放を求められている。しかし、今現実に日本という国で生活している人々はテキストでいうところの介入主義というものに対して、すっかりなれきってしまっている。高い電話料金が他国から非難の対象となっても、「そんなに高いのだろうか」とか「高いかもしれないけれど仕方がない」等と多くの人は感じているのではないだろうか。介入の定義が異なるものの、ポパ―は介入主義をとり、ミーゼス・ハイエクは非介入主義であると学んだ。ポパーの時代が幸せだったということもあるがテキストを読んでもなんという楽観的な考え方なのだろうかと驚いてしまった。とにかく、彼は政治的理性によって社会の合理化を説いた。ミーゼスはこれに対し、非介入による人間の理性の尊重、社会の合理化を説いた。この二人の考え方は少しおかしいわけなのだが、(介入主義とレッセフェールと対立の図式)この介入対非介入という構図は今でもよく論じられる。

   経済の自由化、規制緩和、金融自由化等の動きの中で、社会は非介入・非干渉を良しとする方向に進んでいる。一時は国家による介入がもてはやされた時期もあったのだが、また小さな政府の概念が大切にされつつあるのだろうか。だが、今のこの非介入的な動きを見ていると、いったいこの根底は何なのだろうかと考えてしまう。先にも記したが、資本は政治権力といたるところへの介入に慣れている国のように思われる。しかし、これは別にポパーのいうところの社会を合理化しようとしてみんながこの状況を見とめているわけではない。(どちらかというと理由もわからずしぶしぶしたがっている人のほうが多いだろう)

   自由化、非介入の潮流を見ても、経済のグローバル化が進んでいるから日本のみが硬いことをいっていられない状態になっているのはわかるが、なぜ世界が自由主義的方向に進んで行っているのかが、私にはよく理解できないのだ。

   また、ハイエクは便宜的介入も社会の維持に必要だと考えていたというが、今の日本の福祉国家は果たして他国が批判するほど介入が激しいのだろうか、と考えてしまう。介入主義ひとつをとってみても考察することがたくさんある。考えすぎると混乱するがハイエクの図式に在るように、知を断念して市場ルールに従うのが最も賢いように思われた。人間はそんなに賢くはないのだから。

 

   中西ゼミ 3年 082086 松浦麻里子

  

   『経済学・哲学草稿』は1843−45年に書かれた草稿であり、経済学の歴史を見ると、1776年のアダムスミスの『国富論』によって創始された国民経済学に対してp3、p7で見られるように批判的考えを示し、『労賃は阻害された労働の直接の結果であり、そして疎外された労働は私有財産の直接の原因である』としている。労働者は労働生産過程の主体であるにもかかわらず、私有財産制度ゆえに資本家によって自らの『労働の全生産物は労働者に属する』はずであるが、搾取されて『必要不可欠な部分のみ』しか手に入らない。これはまだ『疎外された状態』であることを意味する。このような疎外された労働者はp1の三つの社会状態と労働者の部分に書かれているように、たとえ生産を増やしてもその成果を収奪されて、貧困化の一途をたどって行くことはp3の労働力の価値低下としての疎外の部分をよむとわかる。そこで、マルクスは共産主義を『使用された私有財産の積極的表現』とし、『人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得』を目指した。マルクスは、労働者が私有財産制度によって『疎外された労働』現象がおき、労働生産過程における賃労働と資本の対立的関係を分析している。だが、私有財産制度社会から共産主義社会への移行をあたかも歴史的必然性に基づいているように論じている点は、共産主義社会を『人間と自然の完成された本質的統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、また自然の貫徹された人間主義である』とする共産主義思想によって導いたものであり、具体的な分析や論証によって導かれたものではないように思う。P3の経済学批判でマルクスは、国民経済学に対して、私有財産制度を所与のものと捉えて、法則を概念的に把握しない』と批判しているのに、自らも私有財産制度社会から共産主義社会への移行を概念的に把握していないのではないだろうか。ここに、矛盾を感じました。

 

   金井ゼミ 3年 082096 山口しおり

  

   純粋なプロテスタンティストがなぜ資本主義を生み出したのかはやはり理解しがたい難問だろうと私は考える。概して、カトリック教国の生活水準は悪いものが多い。イタリアやスペイン、ブラジル.フィリピンの枚挙にいとまがないが、たしか前に何かの講義でカトリック信者は怠けたがると教官がおっしゃっていたことを思い出した。本当にそのとおりだろう。

   同じキリスト教で同じほどの禁欲主義を持っているのにもかかわらず、カトリック信者が禁欲を極めると俗世間から離れ修道院に入るという手法になってしまうのにたいし、プロテスタント信者の禁欲は経済成長を生み出すという構図はやはり難しい。私なりにいろいろ考えては見たが答えが出ないのですが、一応この頭の混乱を整頓してとにかく私の考えを記します。

   私が同じ宗教でこのような差が出た最大の要因として認識しているのは天職という概念である。プロテスタント、特にピューリタンたちは労働を天職とみなしている。神の意志にかなうのが労働であって、ただただ無人に働いて貨幣を得ることを神が人間に求めているというのは非常によくできた合理的なシステムだろう。私は元来人間が熱心に働いて、働くのが大好きな存在だとはあまり思えない。どちらかというと、楽をしたい、怠けたいという考えがちだろう。学生がらくらく単位の取れる講義に集中して、さぼれそうなものには出てこないという姿もそれに通じるものがある。だが、神のためだと人間はとてつもない力を発揮できるものだ。日本のような熱心な一つの宗教が根付いていない土壌では、理解しがたいものかもしれない。しかし、ピラミッドといった宗教的建造物を見るとやはり宗教の与える力は計り知れないものだろう。少し言葉が悪いが、労働を天職、神の意志とすることで、結果として人間の『働きたくないです』精神を刺激し、それが近代資本主義の機動力となったといえないわけではない。

   対するカトリックはどうか。カトリックには天職、労働といった概念が薄い。神の意志にかなうことは、神に生かされていると思うことで、日々感謝していきることなのだ。だから、働かずとも心が豊かであればそれでよし、と考える。これなら、経済が成長しないのも当たり前だろう。

   神のために労働し、貨幣を得るのが天職で、金の使い道なんて考えないプロテスタンティズムと、貨幣を得るイコール使うことで贅沢な悪だと考えがちなカトリシズム。後者のほうが俗っぽい気もする。

 

   金井ゼミ 3年 082096 山口しおり

  

   人が何か職業をもつ(それが天職のように、一生をかけて専念するものならなおさらのこと)ということは、反同胞的になるという。今、現在の社会ほど他者との関わりを避ける無関心主義の反同法的な社会はおそらくないだろう。現代の社会を生き抜いている人々は仕方なしに働いている面が強く、およそ天職とはかけ離れているものの、別の意味で反同胞的といえよう。例えば、私が最たるものだと思うのは、仕事、会社人間の家庭の「お父さんたち」である。彼らは自らの家庭にすら関わろうともせずひたすらに経済に貢献しているのだ。反同胞的の緩衝材として愛の無差別主義が位置付けられている、とウェーバーは記している。ならば、この現代こそ博愛主義的な道徳が叫ばれてもおかしくない。現状といえば、いじめや差別等、皆平等に愛し合う世の中とは程遠いが、確かに人々は宗教的同胞倫理を求めているのが感じられないわけではない。だが同胞倫理は実現し得ていないのだ。制度として成立しないのではないだろうか。無差別が倫理として確立する社会は、それこそトマス=モアの『ユートピア』のようなもので、実際生活では想像つかない。博愛主義的考えを道徳として子供のときから人々は教育されるだろう。しかしこれは「みんなが同じでなくてはならない」といったおかしな平等意識にすりかえられて異端を排除する構造を生んでいるようにも思われる。本来は「人は異なるのだから」というあくまでも他者と自立した個人同士、互いの違いを認め合って愛し合うのが愛の無差別主義だろう。しかし宗教的同胞倫理を見てみるとどうであろうか。太古の昔から宗教紛争は絶えない。例えばキリスト教ならばキリスト教という同胞集団とイスラム教の同胞が互いを認められずに殺し合う様子やアイルランド紛争等々枚挙にいとまがないほどだ。それは今も続いている。理論としての同胞倫理、愛の無差別主義はいくらでも成立するだろう。しかし実践となると、同胞とは同じ宗教、同じ人種やイデオロギー、そして同じ民族や国籍、経済状況と限られた範囲に陥りやすいのだ。これがなぜかは私もわからない。しかし人は題して自分と同じものを人に求め、その上で相手を同胞として認める。たとえ救いの宗教といえども、他の宗教の人々を同胞とすんなり認めはしないのだ。愛の無差別主義が倫理として制度化するためには、人間が異端を容認するという姿勢が必要となってくると思う。職業に専念するあまり、他人にかなわないという反同胞的態度はいかにも近代資本主義的だ。経済活動という宗教とは相容れない行動のために、人々は救いを組織化し、自らの営利活動を正当化した。しかし、愛の無差別主義が本当に倫理として成立するには、人間はもっと努力をして、中途半端な同胞意識を崩して行くべきだと思う。